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遺伝子

素晴らしい音楽を聴くと、後頭部に鳥肌が立つ。

 

音楽の良し悪し・好みを判断するのに、たぶん高校生くらいから自分の中のベンチマークとしてきた現象だ。

プロアマ問わず、これが起きるので便利だ。

更に音楽だけに止まらず、映画、漫画、舞台などにも応用が効く。

もっと良いの作品に逢った場合は、鳥肌が背中にも立つ。

更にこれが最上級となると、腰のあたりまで及ぶ。これは一生を掛けて数件にしか出逢えていないうえ、いつでも発生する。脊髄から細胞が喜びを跳ねあげているようで、この現象に包まれている間は、とてつもない多幸感が湧き上がる。

日々の暮らしで爆発しそうになったとき、これを行えばかなりスカッとする。

我ながら便利なものを見つけたものだ。

 

一度見つけたものに触れ続ければ毎日幸せなわけだが、それでもなお新しいものを探し続けるのは、本能のように思える。

 

気をつけなければならないのは、「クサイ」とか「狙いすぎている」とか、「気持ち悪い」とかにも、似たような現象が起きるということだ。

アニメを観た際は顕著で、これが起きなかった作品はやはり気にいるのだ。

 

わずかずつではあるが年を重ねながら変わっていくその基準は、注視しながら確かに感覚で捉えておかなければならない。

 

ましてなくなってしまうことだけは避けなければならず、不感になるということはほぼ死んだも同然だからだ。

 

一生を掛けて探し続けるもの。

ここに同時に生きる意味が存在するような気がする。

憧れ

音楽はずるい。

 

落ち込んでいるとき、明るい音楽を聴けばそんな気分になるし、暗い音楽を聴けば励まされているような気分になる。逆も然り。

 

音楽をやる人、目的理由は皆それぞれ違うかも知れない。カッコつけたいだけの人からなければ死んでしまう人まで。

それでも結果として出来上がったものは、誰かに響いて助け出してくれる。それは間違いなく、自然の摂理レベルで起きている。

顔も年齢も性別も恋愛対象も見た目も何もかも知らないどこにいるのかもわからない、そんな人に届いて、たしかに響いて、たしかに助けられている。生きる希望になっている。いのちを救っている。逆も然り。

 

責任の有無も問わず、熱量も裏話もわからないまま産み出された音楽は、勝手にどこかで誰かになにかを、している。

音楽が産み出したミュージシャンの預かり知らぬところでしていることは、ミュージシャンにはわからないし、聴いた人次第でなんでもやっている。そういう意味で、ずるい。

 

産み出した痛みや快感で、救われるミュージシャンもいる。ミュージシャンの状況は知らないまま、音楽だけが一人歩きして、どこかの誰かになにかを、している。

そこにはただ音楽だけがあり、ミュージシャンと聴き手の間には、実はなにもない。

繋がったような、共感しているような、そんな「気分になる」だけで、実はなにも起きていない。地球規模で見ると。

ずるい。

特に聴き手の思い込みは、夢中になっているうちはいいが、気付いた時には遅い。それでも人間の、なにか軸の端に、遺伝子の末端に、脳のシワの小さなひとつに、刻まれているように、音楽を求めて救いを求めて、イヤホンを挿す。

 

それは本能に、欲に似ている。

 

私は音楽をやった理由は忘れてしまったが、やらなければならない感情があったから、たぶんやらなければ歪んでいたんだろう。カッコつけたい気持ちもあった。それでもステージの上で、スタジオで、ライブの最中もレコーディングの最中も確かに感じていた。身が削れていくこと、魂が満たされていくこと、みぞおちから湧き上がるなにかが果てしなく大きくなっていく感覚を。

それでも辞めたのは、大学を出てサラリーマンになるという糞みたいな理由でだった。

いまそうなってみてわかるのは、音楽はなくてはならないものだったということだ。

電気で拡張された海の中にいること、その渦を作る一員であること、脊髄から反応して身体中の毛穴から数多の感情を吐き出すことは、確かに生きがいで、なければ不都合がでてくるものであった。

 

約10年。音楽を辞めてから経った今わかること。

どこの誰だか知らない誰かが魂を込めた音楽を聴きながら、確かに救われながら想うこと。

ミュージシャンへの揺るがないリスペクト。

自分の愚かさ。

やりたいこと。

 

自分と同じように救われるひとが増えればいい、なんて死ぬほど教科書通りの感情に素直になれた、夜10時。

 

家族を想い、老い先を想い、一度きりの人生を想った。

 

このまま生きていくことは正しいのだろうか。

楽だろうが、退屈な日々にならないだろうか。

家族との時間で満たされた気になっていないだろうか。

このまま過ごしていったときに、救われる為の器に蓋がされないだろうか。

恐怖。

 

どうすべきか。

 

音楽に答えを教えてもらうほど、弱い人間じゃないはずだ。自分で考えろ。

己の人生の優先度を。

人としての尊厳を。

 

そして自分で決めた道を自分で歩いていくんだ。

心が動かなくなったとき、人はきっと一度死ぬ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ロキソニンの音

やりたくないことをやって生きていくということは、あまりにもつまらないし、ストレスが溜まる。

 

受動的に生きていくということも、あまりにもつまらないし、ストレスが溜まる。

 

やりたいことを能動的にやって(イコールかも知れないが)生きていくことが、人生を一番楽しむ方法だ。

 

やりたくない仕事を受動的にやっていると、ふとしたなんでもないことが幸せに感じることがある。

 

 

私は今日、会社を早退した。

頭が痛い、という仮病だ。

 

寝不足で頭が回らないことと、つまらない仕事から抜け出したい気持ちが相まって、溜まった仕事や後の打ち合わせなどを考えずに帰った。

 

外はくもり。雨は降らなそうだが、晴れやかな気分にはならなかった。

コンビニから出てくる遅めの昼食を買った会社員の茶色いレジ袋。ローテクスニーカーをドレスコードSNSに忙しない大学生のグループ。エスカレーターの手前で流れを無視して立ち止まり、行き先を振り返るスーツケースを引いた老夫婦。華やかなグループにいないまでも、気の合う友人との笑顔を絶やさない女子高生の長いスカートから見え隠れする膝。とっくにリタイアして日々を消化するのに必死な、電動自転車にのった老人の贅肉。スティーブンタイラーによく似た初老の女性。モノレールの車窓から見える高速道路の下り車線を走るレクサス。

 

全てが愛おしかった。こんな当たり前の景色のなかで生きて生きたい、と思った。

家にいる妻と生後2ヶ月の息子を想い、これからはじまる35年ローンを思った。

 

雨が降りそうだ。カバンの上から触れて、折り畳み傘があることを確認する。

 

痩せてはいるが背筋の伸びた老人が横切り、酸っぱい臭いが鼻をつく。

 

まもなく、立川北。立川北。

 

 

 

 

ボディウォッシュの棚卸し

「お風呂に入ったら、まずどこから洗う?」

 

よく聞く質問である。くだるかくだらないかは別として。

おれは頭かなー。

腕から。

大事なところ!

 

「じゃあどういう順番で洗う?」

 

これまた既視感がある。

頭でー、顔でー、首でー

決めてない、わしゃわしゃ洗う。

その日一番気持ち悪いところかなー。

 

『どういう順番で洗いきる?』

 

は、どうだろうか。

ポイントは洗い “きる” である。

 

身体の隅から隅まで、洗い終わって拭くまでをイメージしてほしい。

 

洗いきれているか?

 

ここでそこはかとない不安を覚えたあなた、大変な発見をするかもしれない。

 

続けてみよう。

 

まず服を脱ぐ、身体を洗う。

ここでできるだけ詳細にイメージしよう。皮膚の感覚、泡のつく感触、せっけんの香り、シャワーの音。

ゴシゴシと洗い終わったとき、泡が付いていない部位はないだろうか。

 

私にはあった。

 

死ぬほど唖然とした。

これまで当たり前の、ルーティンとも思えないほどの無意識下にあったルーティンに、とんでもない事実を叩きつけられた気がして驚いた。

 

きっと年齢を重ねていればいるほど、その衝撃は大きい。

ボディウォッシュの棚卸し、一度やってみることをオススメする。

 

 

NEXT ONE / GLIM SPANKY

近年の様々なタイアップにより一躍話題となったGLIM SPANKYの2ndアルバム。

 

ポップスの面から聴けばポストラブサイケデリコやSuperfly、といった立ち位置になるのだろう。

 

だが刮目すべきは、古き良きジャズ・ブルースを完全に消化した確固たる基礎にある。

全般ギターポップやブルースの色を濃く出したアルバムとなっており、枯れたブルージーなギターが印象的に鳴る。

 

そこにサイケデリックかつファンキーなボーカルが乗り、ガレージバンドのような雰囲気も流れる。

 

演奏に近代的な部分はほとんど無く、極めて王道といえる。

しかしその芯を喰うポップメロディが、あくまでも彼らをポップスのステージに括り付ける。

 

その無意識で感じる違和感が、楽曲をいつまでも耳に残すのだろう。

 

LOVE & GROOVE DELIVERY / UNCHAIN

椎名林檎の原キーカバーで話題になった、男性4人組バンドUNCHAINのカバーアルバム。

 

普段はソウル・ジャズなどをベースに爽やかな音楽を奏でる。

本アルバムで一層有名になった彼らだが、ここで流れる雰囲気はそのまま彼らのオリジナル曲でも健在だ。

軽いカッティングのギターが、突き抜ける癖のないハイトーンボイスが、海岸を想起させる爽やかな疾走感が、古き良きソウルファンクの香りが、気に入ったならオリジナルアルバムも間違いなく好みだろう。

それほど、カバー曲を自分たちの色に染めるアレンジ力がある。

 

勝手知ったる曲を突き刺して行く声と演奏は、ただただ心地いい。

原曲に媚びることなく、しかしリスペクトを残したまま忠実に歌い上げる。

そして楽曲の完成度が完全なオリジナリティを生み出している。

 

また選曲が絶妙である。

 当然ながらソウル畑の曲はある。だが宇多田ヒカルや所謂歌謡曲、さらにK-POPまで幅広い。

タイトルを見ただけで聴いてみたくなるようなものばかりだ。

もちろんそのバリエーションの広さは圧巻だし、何よりチャレンジ精神に脱帽だ。

素晴らしいのはその曲すべてが間違いなく、最高のレベルでカバーに成功しているということだ。

 

オリジナリティとリスペクトというカバーの成否を分けるバランス感覚だけでなく、その選曲まで見事な、ここ数年で最高の一枚ではないだろうか。

骨抜き E.P. / ポルカドットスティングレイ

たったの4曲、それを3回繰り返して聴くことで、枯渇感を与えられるバンド、それがポルカドットスティングレイだ。

 

初聴は既視感の上に並ぶ先人の偉大さだった。

椎名林檎東京事変のメロディセンスを改めて認識するとともに、クリープハイプの疾走感に想いを馳せる。

 

二度目は既視感を受け入れ、その心地よさに身を委ねる。

違和感のない馴染みのある音楽を何の疑いもなく、聴いていた。

 

三度目に聴いたとき、随所のエモーショナルな表現に、メロディと歌詞がピタリと合うキメに気づき、眼を見張る。

 

四度目に真正面から向き合って、隅々まで感じとったとき、それが完全なオリジナリティの塊であることがわかる。

と同時に、まさに「骨抜き」になっていることに気づくのだ。

 

神は細部に宿る、と言うが、細かいところまでしっかり出来ているという本来的な意味ではなく、あくまで荒削りな中に、ハッとするような一瞬がある意味では適当だろう。

ピタリと合う演奏と歌唱のジャズ的興奮と、聴き終えた後に廻るキャッチーなメロディラインの残響、かと思えば簡単に辿れない複雑なメロディと僅かの性欲。

 

既視感という薄い膜に包まれて、これ以上ないオリジナリティを表現するわずか20歳と少しの4人。

これを見逃してはいけない。

これからどう洗練されていくのか。

正しいことも余計なことも雑多に集め続けて、そのフィルターを目詰まりさせて、また新たなオリジナリティがそのフィルターごと突き破って発射されていくのを、まさに「骨抜き」状態で口を開けて見守り続けるしかない。