ふみかきブログ

文を書くからふみかきブログ

うれしくって抱きあうよ / YUKI

JUDY AND MARYのボーカル、YUKIのソロプロジェクト5枚目のアルバム。

 

旧来から追って来ているファン以外には解りづらいが、間違いなくここがソロとしてのYUKIのターニングポイントだろう。

 

JUDY AND MARYを解散してから、荒々しくエロティックに唄う彼女が居なくなってから、その続きを求めてソロを聴く。そんなリスナーが多かったろう。

その期待に応えるように、joyではバンドサウンドを中心に、真芯から敢えて少しずらした姿でソロの色をつけていた。

それに賛同するもの、懐古するもの様々だったが、枚数を重ねる毎に徐々にバンドのフロントとしてのYUKIの色は薄らいでいった。

 

そしてこのアルバムで、彼女はソロのボーカリストとして完成した。

 

そのあどけなさ、突き刺すようなハイトーン、母性、ドキリとする色気、奥行きを、喜びも悲しみも全てを、その鼻にかけた声に乗せて表現するようになった。

曲に、アルバムの流れにドラマが現われ、センチメンタルな、サディステックな喜びがひしひしと伝わってくる。

 

単なる声質の変化だけでなく、表現の幅の違いも見られる。

jazzyな曲からEDM、もちろんバンドサウンドや弾き語りまで、その全てそれぞれに合致するボーカリングが成される(これは曲と出会わなかっただけで、天性のものかも知れないが)。

 

声の端々に混ざるゴーストが、鼻にかけた吐息が、その感情をこれでもかと伝えてくる。

そしてその裏にある意味を聴き取ろうと、没入していく。

その頃には、既に虜だ。

 

一緒に楽しもうよ、から、その声自身で楽しませる段階まで来ている。

 

 

 

助演男優賞 / Creepy Nuts

元暴走族、孤児院育ち、アウトローなバックボーンはない。

そこにあたるカウンターとして、有名大学出身や、いじめられっ子などのキャラクターがあるが、彼らは全く違った形でアウトボクシングを繰り広げる。

 

童貞と非モテという個性を、フリースタイルの場ではピラニアに生肉をぶら下げるごとく突きつけ、食い付いた相手を完璧なフローで更に食いつぶし、大会で腕を鳴らす。

その後ろで流れる音楽は、世界的な大会で上位に食い込むDJが繰り出す。

極めて確かな技術を持った2人は、巨大なコンプレックスで出来ている。

 

タイトル曲の「助演男優賞」は彼らのスタンスを明確に表している。

主役を張りたいのだけれど、そんな柄じゃないし、という葛藤は、多くの共感を得る。

しかもそれを歌う音楽はかっこいい。
自身の個性・武器を客観的に見て正しく戦う点では、このタイトルを付けた時点で勝ちだろう。見事だ。

 

音とフローに関しては上記実績から推して知るべしだが、叫ぶ言葉は自身の思春期の立ち位置の嘆きから、妬み嫉み、昨今のミュージックシーンへの嘆きまで様々だ。

しかし一貫しているのは、そのコンプレックスを堂々と、極めてカッコよく歌うことだ。

その姿は同じ境遇の者へ希望を、そうでないものへは憧れをもたらす。

ここで彼らはその境遇に逆転勝ちするのである。

 

大槻ケンヂが言った。

「コンプレックスもステージにあげればロックになる」

の言葉を地で行くカリスマをここに見た。

 

 

融 / 空気公団

春。休日の朝。ひだまり。洗濯物。伸び。猫。家族。麻のカゴ。琺瑯のマグカップ。青空。光。

 

ほっこりと、まったりと、ゆったりとした世界があって、客観的に見ている、または入り込んでいるような曖昧な雰囲気で佇んでいる。

 

声質も演奏もふわっとしていながら、具体的な歌詞に乗せて日常を歌う。

こんなにわかりやすく世界観があるのに、既視感を全く覚えないのがすごい。

クラムボンほどソリッドではないし、フィッシュマンズほど浮遊感はない。矢野顕子ほど癖があるわけでもないし、YUKIのような歌唱力がある訳でもない。

 

しかも上記アーティストも、ひねり出さなければいけないほど似ていない。

 

このオリジナリティは何だろうか。

 

いくら頭で考えても答えは出ない。

頭を空にして聴くと、その空気に包まれて何となく答えが見えてくる。

しかし決して言葉にはならない。

 

春先のよく晴れた日、公園のベンチで、まどろんで、うたた寝して、目が覚めたら大好きな人がにっこり微笑んでくれるような景色の中に、何かが足りないのならば、それが空気公団だ。

 

 

The Cost Of My Freedom / Ken Yokoyama

Hi-STANDARDのギターの横山健が始めたソロ活動」

それだけの文言が、全国の子供からいい年したおっさんまでを虜にした。

活動休止以降ぽっかりと空いた穴を、少しだけ物足りなさを感じる昨今のバンドで埋めた私の胸で騒いだ。

 

一曲目、「I GO ALONE」と、はっきりとした意思表示から入るが、まず驚くべきはアコースティックギターの音色に乗る横山健の歌声だった。

当然だが我々はボーカルとしての彼の声をはっきりと聴くのはこれが初めてだ。

だがあまりにもスタイルがはっきりと確立していた。

違和感なんてものはなく、小気味良いカッティングで進む数分間の間に、後続曲への期待はみるみる高まる一方だった。

今でもライブでこれがキラーソングとなっているのは、シンガロングできるだけではなく、この時の感情がはっきりとリスナーにこびりついているからだろう。

 

そしていとも容易くその期待を受け止めて、ジャーマンスープレックスまでしてくれるほど最高の出来だった。

 相変わらずのパワーコードでのカッティング、ミュート、早弾き。だが知らないメロディ・歌声。不思議な既視感。

 

Hi-STANDARDの二番煎じでは決してない、しかしハードロック・コアを根幹からモワモワと匂わせながらオリジナルのメロディックコアを奏でている。

もしかしたら横山健という個性が最大限に発揮されるのは、Hi-STANDARDではないのかも知れない。そんなタブーにも似た考えに陥ってしまいそうになるくらい、完成度の高いアルバムだ。

 

ストレートで、クセがあって、疾走感があってスカッとしてカッコいい。

そんな単純な感想は、Hi-STANDARDで感じたものと同じ輝きのままだ。

 

 

LAGOON / 日食なつこ

彼女を初めて見たのは「水流のロック」のMVだった。

 

ピアノとドラムが向き合っただけ、数台のカメラが切り替わるだけの構図だった。

背景には軽井沢の白糸の滝があるだけ。

 

ジャズでロックなピアノを、エモーショナルに愛撫するように身体を揺らしながら叩き、少し眉間にしわを寄せながら、黒いストレートドレスに黒いストレートヘアーで、線の細い身体からは信じられないくらい確固とした哲学が、巻き舌を通して吐き出されていた。歌詞ではない哲学だ。

 

緑と黒と白のコントラストに翻弄された3分と2秒は、私の心を鷲掴むのに十分だった。

 

それからすぐに時系列順にアルバムを追った。

記念すべき1枚目であるこのLAGOONは、ピアノと声以外にはなにもない、彼女を堪能するには十分な、もしかすると最良かも知れない。

 

英語と日本語で決して揺らぐことのない哲学の塊が並べられる圧巻さは当時から顕在である。

一般的に言われるピアノの演奏技術の高さも聴きどころで、リスナーの安心感と不安感を巧みに操ってくる。

現在の最新作でもその日食なつことしての根幹を揺るがすことない進化は続いているが、デビュー時点でそのほぼ全てが確立していたことは明らかである。

この早熟の仕方は宇多田ヒカルをはじめとする所謂天才に多い。

 

 

驚くのはこのアルバムの曲のほとんどが本人が高校生のときに作られたという事実。

ライブ映像ではまだあどけなさの残る子供のような雰囲気で、ピアノと歌がまるでアテレコのように見えた。

 

それほどの才能を持つ人間に対しては、年齢を持ち出すことはむしろ失礼にあたるのかも知れない。

 

 

 

baseball bat tenderness / MO'SOME TONEBENDER

モーサムが帰ってきた。 そう思った。

 

「鋭い」と「オシャレ」の間のようなギターリフを武器に、あくまで斜に構えてすかしたような声で歌うボーカル。

ソリッドに、時に唸るように鳴くベース。

そしてガレージバンドの音色で荒れ狂うドラム。

 

古くからのファンは一曲目「ヒューマンビーイング」に、初期〜SUPER NICEあたりまでの面影を連想しただろう。

暴力的ながら角の丸いミックスで聴きやすくはなっているが、間違いなくそれは昔見たモーサムの姿だった。

これまでのEDM路線を完全に払拭したのかと思った矢先、「FEEVEER」でかつてC.O.Wで見せたメロディアスな四つ打ちダンスミュージックが流れる

かと思えばますます初期の色を伺わせる中盤の連曲が構えていて、「ポップコーンダンス」のイントロギターリフの音色に完全なecho時代の錯覚を覚える。

しかしよく聴くとロッキンルーラあたりにありそうないい意味で間抜けな曲になっている。

そしてまたもやstruggle以降のノイズ・サイケデリック・エレクトリカルな連曲から、毎度おなじみ(おなじみな時点ですごいのだが)極め付けの壮大でセンチメンタルな泣きメロで締める。

 

出会ってしまった、と思ったガレージ色の強い初期の衝撃。

ポップになりながらも その確固たるメロディアスなスタイルにのめり込んだ安心感。

明らかな方向性の変化への疑問と、回答を渋る難解な曲の数々を生み出し続けた不安感。

そんないろんな感情が走馬灯のように、結成から一貫して発揮し続ける疾走感に乗って駆け巡る。

 

しかしそれぞれの楽曲は二番煎じではなく、それぞれのアルバムの続曲であるかのように洗練され、明らかに磨き上げられている。

 

なにかを思って、狙って生み出されたアルバムなのか、偶然の産物なのか。

百々のソロや、パートの入れ替えで事はさらに複雑になっている。

 

冒頭の否定になるが、モーサムは帰ってきていない。未だ回答を渋っている。

ジャケットの仮面の奥に問いかけても、当然はっきりした答えなんて返ってこないのである。

 

PEACE OUT / 竹原ピストル

2009年に野狐禅を解散してからソロ活動を行なっていたが、ここ数年まで明るい話題を耳にすることはなかった。

ドラマの主題歌やCMソングで脚光を浴び始めたのは、その経歴からは極めて最近のことだ。

 

ソロになったとき、若干の「衝動」や「動機」などが欠落したものの、「色気」や「余裕」が付与されたように思った。

しかし長く一貫した活動に裏打ちされるように、その音楽性は一貫している。

 

hiphopのごとく韻を踏み、フォークの佇まいとメロディ、ブルースの渋みを混ぜ込んで、がなるようにオールアウトで奏でる。

ビートを自分で決め、揺れるようにねちっこくかつ鮮やかに弾き語る曲から、電子音をふんだんに取り込んだ曲まで、色とりどりの音楽の前でつばと命の欠片を飛び散らせながら喉を鳴らす。

そこに相対する瞬きを忘れるほど何かを取り込みたいと感じるリスナーが存在する。

これこそが竹原ピストルが見つけたフローだ。

 

ギター一本が最も輝くと思うことは変わらないが、どんな音楽の前でも一切らしさを失わない理由は、本当に芯を持ったミュージシャンを想像すれば簡単だろう。

 

脚光を浴びメディアへの露出も増えてきた。

そのことを憂うファンは多い。

ただ竹原ピストルはその名の通り、まず間違いなくこの先ぶれることなく真っ直ぐに飛び続けて行くだろう。